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2009/3/6 シンちゃんは元気母のところに週に二回行く。用事のあるときはこのほかにも行くが、基本的にはお風呂のあとの洗濯物を取りに。母と一時間ほど一緒にいて戻ってくる。このほかに妹がひょっこり顔を出している。
母、シンちゃんは元気。家に帰りたいとも言わない。けれど、トイレ通いは家にいるときと同じらしい。行きたいとなったら今行ったばかりでも「行く。もれちゃう」を連発。諭しても「やだぁ!」。子供と同じ。
職員の人が言うのには、気が紛れている時はトイレのことは忘れているそう。これも家にいるときと同じ。一日中車椅子なので、早々とお尻にジョクソウができてしまったのだけれど、横になっていたほうがいいと言っても聞きわけがないらしい。これも家にいるときと同じ。職員の方はこぼしておられた。無理もない。
でも家と同じにしていられるのならいいのかもしれない。母が安心してそこにいるということだから。職員の方には面倒をかけるけれど。
帰りは「バイバイ」と手を振ってくれる。同じようなおばあちゃまが集まっている談話室から去るとき(おじいちゃまは一割もいない)振り返って母を見る。自分で勝手に動いてはダメと言ってあるのに、また自分でトイレに行こうとしている。でも、帰ってきてしまう。後ろ髪を引かれる思いとはこのことかも。
2009/2/5 胸が痛むまだ入院中の母、退院後はそのまま老健に行くことが決った。母本人には、ずっとそこで暮らすことになると伝えていない。リハビリしてよくなるまで、と。
胸が痛む。なんでこんなことに。母を嫌いなわけではない。むしろ長女の私から見ても、元気なころは、可愛いおばあちゃんだったし、素直だった。母には安穏と暮らして欲しかった。
それが昨年来、歩くことはもちろん、着替えも食事も一人でできなくなった母は、家の中で「あっちへ行く」「こっちへ行く」。私はそのたびあっちの部屋の暖房を入れ、こっちの部屋の暖房を入れ、トイレも電気ストーブを置き、「寂しいコール」の代わりに訴えるおしっこ、おしっこに、一日中ついていなければならなかった。何とか諭そうとしても「いやだ!」。そんな母は、石うすに粘着ノリをつけたように重かった。外出する時は妹に来てもらい、来てもらえば妹にお土産を買ってきて・・・。家の中は介護一色。限界かなぁ、と思っていた矢先、母はほんのちょっと目を離した隙に転倒して骨折。
そのようなことは、すべて言い訳なのだろう。でも・・・私の生活は?
それで決意したのだったが、やはり胸が痛む。施設暮らしなどいいはずがない。「少人数で看ていますから、おうちのように手は届きません」「やはり転倒などもあります」というように、施設側から念を押された。それでも預けるというのだから。
つらい。
母に合わない施設だったら、どこかいいところを探して変わろうと思っている。とりえずの応急処置、ということで自分を納得させてはいるけれど。
2009/1/30 シンちゃん私の母の名前はシン。今回入院したのは5階の整形外科病棟。9日まで入院していたのが4階の内科病棟。その4階の看護師さんや補助の女性たちが「シンさん!」と顔を覗かせてくれたのです。もちろん用事のついでに、ちょこっと立ち寄った程度ですが。
「かわいい~!!」ですって。私の母、かわいいおばあちゃんみたい。
内科病棟にいたとき、ふつうに「シンさん」と呼ばれ、「シンちゃん」と呼ぶ若い看護師さんもいました。私は、ぷっと吹いておりましたが。
私と妹が交互に、朝昼夜と食事介護や口腔ケアに行っていますし、母は得な性分(運命?)かも。術後の経過も順調で、いまはそれなりに元気にしています。
今後は、とりあえず、今までデイサービスなどでお世話になっていた老人保健施設に預ける方向で動いています。私一人では、すでに家で看る限界でした。本当は有料の老人ホーム、もっと待遇のよさそうなところを考えていたのですが、いますぐ空いているところはないので。
この老人保健施設の相談員と会うのが2月の3日と決まりました。この種の人たちは、どこも人手不足で忙しく、やっとその日なら「会ってあげる」みたいな有様です。
ケアマネージャーさんいわく「病院には、いま手続きの最中だからと押して、少し長くいさせてもらいなさい」とアドバイスをもらいました。先が見えていれば、病院側も少しは考えてくれるそうです。きっと、必要以上に長居する患者さんがいるのでしょう。それに、やはり政府の方針で、長く病院に置かないようになってきているようです。看護師長さんも役目柄仕方がないところがあったかもしれません。
ということで、また長く書いちゃいましたね(^^ゞ
皆さま、若いうちから骨を丈夫にしておきましょう。シンちゃんは、骨折は3回目です。毎日牛乳を飲んでいたのですが、それでも肋骨、背骨、今回の大腿骨と。女性は心がけていないと、高齢になってから骨がもろくなるようです。
甘えん坊、寂しがりのシンちゃんを、また看に行ってまいります。
2009/1/26 冷たい医療母が骨折した。大腿骨骨折。今月の9日に退院後、心不全はかなり改善して、頻脈も改善。ときどき老健施設を利用しながら、家でまあまあ過ごせるようになった矢先だった。昨日の夕方、私が外に洗濯物を取り込みに行っている隙に、一人で歩こうとしたのである。音がしたので慌てて駆けつけたら転んでいた。痛がるので救急車を呼んだ。
今日の午後、不整脈の状態を見ながら手術。金属で補強したのだ。手術時間は病室を出て帰ってくるまでに二時間。無事終了した。輸血もしたが、大丈夫そうである。
それはそれとして。
病院は、抜糸が済んだら退院というのだ。看護師長さんの言うのには、「治る見込みのある方なら、リハビリしますし、もっといてもらいます。でも(高齢だから)よくて車椅子に座れる程度、ほとんど寝たきりになります。今までより確実に状態は悪くなります。下手に半端に動けない方がいいでしょうし・・・」
ここまで聞いて怒りが込み上げた。治らないから早く出て行けだって?リハビリも一週間しかしない? 半端に動けないほうがいいって、それは看る側の都合じゃないか。
ひどい!!!
確かに、母を看ていて、いっそ動けない方がらくだと思ったことはあった。けれど、あまりにもしんどいとき、たまに、ちらっと思うだけである。それを医療機関の人にしゃらっと言われてみると、ひどく腹が立つ(看護師長さんは「動いて、また怪我をすると本人にとってよくないから」と付け加えたが)。
たとえそれが事実であっても、もう少し言い方があるだろうに。それでもって、退院後に預ける施設のことをソーシャルワーカーに相談した方がいいと言う。つまり家では面倒を看られない状態で追い出すのである。
ひどい。けれどこれが現実なのだ。日本は高齢者にやさしくない国だ。
2009/1/13 母さんと会話
「88年生きてきて、どうっだった?」 「なんにもない」
「なんにも、って。幸せだったと思ってる?」 「なんにもないから、幸せじゃない」
「えーー。幸せじゃないの? たとえば母さん、父さんとあちこち旅行に行ったじゃない。よかったでしょう?」 「旅行は行ったよ」
「ヨーロッパも行ったしカナダも、オーストラリアも」 「うん」
「それって、幸せじゃないの」 「よー行った」
「国内だって、北は利尻礼文、南は竹富島まで、あっちこっち行ったじゃないの」 「うん、よー行った」 「そんだけ?」
「あんなに「おかあちゃん、おかあちゃん」って言ってた父さんのこと、時々は思い出してるの?」 「思い出さん」
「えー、どうして? 夢に見ないの?」 「夢なんか見いへん」
「冷たいね。あの世でお父さん怒ってるよ」 「なんにも思わん」
「なんなの、お父さんのことなんにも思わんの?」 「はよぅー、死んだ」
「なにが早いの? 84なら天寿を全うしてだわ・・・」 「ちょっと、お便所まで連れてって」
2009/1/12 お尻係り9日に退院してきた母、家では元のように、絶えず私を呼んでいる。今朝、6時に起きてから二時間ほどの間に、トイレ7回、何も用事がないのに呼んだのが4・5回。呼んだけれど聞こえなかったことにしたのが数回。おー、おー、そんなに呼ばないで。
「私はA子じゃないよ。ひょっとしたらわるい子だよ、だから呼んでも来ないよ」と冗談で言った。
母は、 「じゃ、わるい子ぉ~、わるい子ぉ~」
ん、もう!!!
とにかく、私は母のお尻係り。リハビリパンツを下げて拭いて、上げて・・・。一日中、母のお尻を見ている感じ。
「お尻かじり虫という歌があるけれど、このお尻、虫も横向いて通るよねぇ」と私。 母は「お尻かじり虫ぃ~」とニコニコ。
あー、ん、もう!!
着替えに、身体拭き、歯磨き、食事の世話、薬の世話・・・生活全般が乗っかっている。そのほかタイクツだと言っては呼ぶ。手の届くところに食べ物を置いておくなら食べてしまう。結局タイクツだから食べる。取り上げる。まったく、でっかい漬物石のような子供がいるようだ。
母には、明日から週三回ディサービスに行ってもらうことにした。送り出しと迎えの時間は厳守だけれど、母がいない間、お尻係りから解放される。
2009/1/7 老人はさみしい長いこと更新してなかった・・・。気持ちに余裕がなかったのである。
母は、昨年12月の18日に心不全で、再び入院。水抜きと脈の調整をしたところ、もとのシワシワおばあちゃんになり、脈も120あったのが70くらいまで下がってしまった。血圧も正常値。すごい、すごい! もちろん、薬を飲み続けているお陰ではある。
お正月は外泊して三が日を我が家で過ごし、今はまだ病院にいるが、じきに退院できそう。めでたし、めでたし。と言いたいが、介護する私はまた大変な日々が始まるんだろうなぁ。
この母、病院でナースコールしてばかりいる。トイレとかベッドの上げ下げなどの用事ならいい。用もないのに押すのだ。なぜなのか聞けば「おもしろいも~ん」。こら、こらっ、なんてやつだ。
昨日は看護士さんに「あのねぇ、わたし、話し相手がいないの」と言ったそう。それで看護士さんは、母を車椅子に乗せて看護詰所に連れて行ったのだとか。看護士長さんの横に置いといたそうだ。車椅子に座らせておくと、じきにウトウトし始めるから、どのみち話などしないのだけど。
この母にお友達でもいればいいのだけれど、いてもすでに高齢か他界されているので、見舞いに訪れる人もいない。親戚は・・・、遠い親戚は母を気遣って来てくれた。ところが近い親族は誰も来ない。来ないのは母の血縁関係である。この状態になって長いので、母のことはすでに知れ渡ったのにである。 実を言えば、初めはひた隠していた。見舞いに来ていただけば、相手方の時間をとらせ、多少なりと散財であろうし、義理で来ていただくのならいらないと思っていたから。でも、母のことを思うと、今は賑やかしに来ていただけたらと、ちょっと切なく思う。
考えすぎかもしれないが、母のことだけでなく、このところ感じるのは、父も夫も他界して、女二人の家になって、皆さんの義理も薄くなったのかも。男尊女卑とまではいかないが、世間とはこういうものなのだろう。でも、こういう状態になったときこそ、義理か、そうでなく心なのか、人がよくわかる。
どんなときも変わらず気遣ってくれる人を、こちらも大切にすればいい。私も、義理ではなく、人を気遣うことを忘れないようにしたい。
2008/12/21 ひょうたんがしぼんだ?
母が再び入院した。今回は10日くらいの予定。
心不全だそうだ。・・・これって、重篤な病気だと思っていたけれど、まだ軽い方だそうで、水抜きすれば苦しさが少なくなるのだそう。でも、素人考えでは、またすぐなりそうな気がする。
何はともあれ、今私は夜ぐっすり寝られて、母には悪いが、ほっと一息ついている。
母は、病院ではベッドから下ろしてもらえない生活なので、退院した後は、ますます自分で動けることが少なくなっているだろう。私の負担は増えるかもしれない。
けれど、今は後のことは考えないことにする。母がお正月を家で過ごせることを願って、今のうちに鋭気を養っておこう。
あ、「ひょうたん」とは、母の足のことで、入院する前は足が腫れて、母は色が白いのでモチを連想した。押しても弾力がなく、なかなか元に戻らない。靴下のゴムの跡が付きすぎてくびれていた。私が「ひょうたんのようだね」と言ったら、母は「ひょうたんから駒ぁ」と言ったのだ。笑ってしまった。
そのひょうたんは、今はない。足にもシワが戻ってきた。しぼんだのである。 2008/11/29 私を呼ばないで呼ばれてもいないのに、呼ばれたような気がして真夜中に目が覚めた。母の声が耳についてしまったようだ。
A~子、A~子、おーーい、おーーい。
返事をしても、しても、顔を見るまで呼び続ける。
昨日、母に言った。「そんなにトイレが好きなら、トイレに住んだら?」
母はちょっと笑っただけ。目覚めている時は、10分と空けずに呼ぶ。やめて、やめて!! そんなに行っても出るわけないから我慢して、と言っても聞かない。なぁ、なぁ、連れてって。なぁー。漏れちゃう。なー。 朝の5回目くらいまではニコニコしていられるが、その後はこちらも甲高い声が出る。ああ、やめたい。こんな声を出すつもりはない。
母は寂しいのである。寂しいから呼ぶ。わかっているけれど・・・ この人、トイレの水と一緒に流してしまいたい・・・思う。思ってしまう。
私は風邪を引いたようだ。のどが痛い。頭痛がする。身体がこわばる。だるい。火曜日にインフルエンザの予防注射をしてもらったのがいけなかったのか? 針を刺した周辺がまだ痛い。
起きたついでに、尿取りパットというのを取り替える。夜の日課となった。母はぐっすり寝入っている。
2008/11/21 すべて投げ出す 母の介護をしながら暮らして、最近は重石を5個くらい背負った気分。明るい介護を目差していたはずなのに。
一番の重石は時間。自分の時間がない、自由に外出できない。これって私にはかなりのストレス。かといって出かけても母が気になってストレス。
時々施設を利用しているものの、「ショートステイ」というのはいつも満杯に近くで、施設が空いていれば預かってくれる(預かってあげる・・・という雰囲気)程度。月に一・二度、二泊くらいがせいぜい。それに母自身が行きたがらない。ディサービスのほうも、行く前になると「胸が苦しい。今日はやめておく・・・」とだだをこねる。あげく怒り出す。
先日、この頻脈は異常だと思い、臨時に病院に連れて行ったのだが、結局新しく薬が出るわけでも薬の量を加減するのでもなく帰された。要するに経過を見守るより仕方がないのだ。入院中は心房細動だった不整脈が、いまは心房粗動というのに変わったそうだ。頻脈も120というのは、これ以上とこれ以下で対応が異なる。微妙な数値のようだ。
ということで悲痛な声で私を呼び続ける母に悩まされている。母は耳が遠いので、こちらが返事しても聞こえない。顔を見るまで叫び続ける。用事はトイレしかない。頻繁過ぎるので連れて行っても出ないこともたびたび。だいたい、母にどんなに言っても水分を取らないし。
でも、もういいのだ。母はなるようにしかならない。私も随分長く生きてきたし、やりたいこともけっこうやってきた。なんか、今は、どうでもいい・・・そんなふうに半ば自棄している(自暴はしないから、まだいいか)。
夢見るころは過ぎた。・・・と自分に言い聞かせる。
2008/11/13 越えられない今日は母の体調がかんばしくなく、デイサービスを休ませた。息が苦しそうで食欲もなかった。その後、朝食はバナナ一本にリンゴを一切れ、ミルク少々を口にしたので、様子を見ようと寝かせておいた。母は一日中、お昼ご飯の時以外は実によく眠っていた。
私は夜には中国語講座がある日。HSKの対策講座で私にとっては、かなりハード。昨夜は夜中に起きて復習し、まだできなかったので、きょうの午後もやっていた。4時ごろ、洗濯物を取り込んで化粧も済ませ、服も着替えた。そして母の面倒は妹と交代して、さあ出かけようとした。
ところが・・・ やって来た妹が母の体調不良を聞いて動揺してしまったのだ。なぜ知らせなかったと言うし、私が出かけると悩むというのだ。結局、「様子を見て病院に電話して連れて行くから」と妹に言ったら安心して、「講座に行けばいい」と言ってくれたものの、すでに電車に間に合わなかった。私も妹にそこまで言われるとプレッシャーだった。
それで、先週に引き続き講座を休んでしまった。
ずるずる・・・
高い山を登りかけては、ずるずる落ちる。絶壁のような崖に爪を立てては背丈ほど登ったらまた落ちる。私の中国語はいつになったら山を越えられるのか。人のせいにしてはいけない。でも・・・
でも、まあ・・・ね。人生、こんなときもある。今は母のそばにいなさいと神様が言っているのかもしれない。いつかは、たっぷりと時間ができるときが来る。そのときのために、自習すればいいのだ。どうせ自分のために学んでいる中国語。
越えられない山は、私の目標であり、愉しみなものでもある。私は諦めない。いつか必ず・・・
母は夜もスースー寝ている。脈は常時120くらいある。ほかにも気になる症状があるので明日も今日と同じようだったら本当に病院に連れて行かなければ。
2008/10/31 ワイン飲みたし、
中国語の講座に出かけて、戻ってきたら母がベッドの横で転んでいた。あれほどベッドから自分で降りないように言っておいたのに。 しかし怪我もないし、風邪も引いた様子もなかった。やれやれ。
この介護ベッドには、安全のため自分で降りられないように全面に柵がしてある。介助レバーというのを自分で外したというが、そんな力はなさそう。どうやって降りたのだろう。聞けばトイレに行きたかったのだとか。自分で車椅子を押して行こうとしたらしく、車椅子も移動していた。今はトレーニングパンツほかしっかり防御してあるので、失禁してもまったく大丈夫なのだけれどそれが分からないのだ。
私の留守中は妹に頼んで出かけた。が、この講座は夜の9時20分まである。それから帰ってくると家に着くのは11時近い。妹もそう遅くまではいられない。
昨夜、私はほとんど寝ていない。にもかかわらず驚いたせいで眠さが吹っ飛んでしまった。ワインでも飲んで寝ようか・・・あ、でも母を見回らないと。ん・・・ 2008/10/26 母の退院、介護生活の始まり 昨日、母が退院してきた。
・・・・・・・、 今日、早くも腰痛。腕も筋肉痛。 自分の時間が取れない。眠たい。 「ベッドで飲食させないで、ご飯はちゃんとテーブルで」 「お昼は服に着替えたほうがいい」 「リハビリの運動やってるの?」 などなど、妹が言う。心配が口を付いて出るだけなのだけれど、言われた方はプレッシャー。 ええ、それくらいやってますよ。当然。 けれど、「いい子」にはならないつもりでいる私。ツボ以外は、けっこうちゃらんぽらん。でもそれで母とうまくいっているからいいじゃない、と内心思う。 やーりー(圧力)だね、と中国語のわからない妹に、ひとこと(笑 しかし、まあ、腰いったーいよ。 動けない人って、石のように重い。 介護生活は通販生活とちがう・・・誰かがこういう詩を書いたら、と提案。 書いて介護を笑い飛ばそうか。 2008/10/18 あんぱんマンの家病院にいる母、あんぱんが好き。そう、食べられるようになった。「胃ろう」という胃に管で栄養を補給することを提案されたころとは格段の差。意識もハッキリしてきて、いまや「刻み食」と言うのが病院では出されている。
よかった!! 一時はどうなることかと思ったけれど、がんばった甲斐があった。私と妹も、よく三ヶ月間、医師に不満を持ちながら辛抱強くやったと思う。
で、あんぱん。薄皮の5個入った小さいもの。あれは皮が柔らかいからノドを通りやすいのか、あんぱんの中でもそれに限り食べてくれる(^_^)。でも、そんなに沢山食べられないので5個食べきらないうちに賞味期限切れになる。私だって、そうあんぱんばかり食べたくないので、家のワン公、ハチベエにやる。すると、すごい勢いでパクつく。
このハチベエも今年の夏の初めのころは、危なかった。すでに18歳を超えているのだ。この夏はもたないと思っていた。それがひどい暑さだったこの夏を乗り切り、いまや食欲旺盛。私がつくる鶏挽き肉のそぼろのお陰かも。散歩の足取りは、もうヨロヨロであはるし、排出するものの世話も毎日(エライコッチャ)なんだけど。
母は25日に退院が決まった。でも、自分で立ち上がることはできなくなってしまった。リハビリのお陰で、支えていれば30秒くらい立つことが出来る程度。家に帰ってきたら、やっぱり食べることと出すことは、すべて私が世話しなくてはならない。デイサービスとショートステイという介護制度を使ってなんとかするつもりではいるが、やっぱり(エライコッチャ)で、こちらはワン公の比ではない。
この両あんぱんマン(わん?)、可愛いワン公に可愛いニコニコばあちゃん。憎めないので、やれるのかも(●^o^●)
しかし、さて、これからどーーーなることやら。
2008/10/2 バナナ、バナナ一週間か十日前ぐらいからだろうか。スーパーでバナナを見かけなくなった。入荷はしているようなのだけれど、私が行く時間帯にはすでに完売状態。またテレビで身体によいとか何とか放送したんだろうと思っていたら、バナナがダイエットに効果あるという内容だったようだ。
母が、バナナを一本の三分の一ほど食べられるようになった。妹が試しに、病院の食事盆の上に置いておいたら手を出して食べたという。時間はかかったけれど、ちゃんと喉を通ったようだ。もう、もう、食べられるのなら何でもいいから食べてほしい。そう思って買いに行ったのだけれど、見事になかった。 それで、妹がスーパーの開店と同時に駆け込んで買ってきてくれている。
しかし、ねえ。バナナダイエット・・・。テレビの影響力と言うか、疑わない人が多いのねぇ。テレビっていいことばかり言う。隠れた部分で努力していることもあるに違いないのに、苦労のことは苦労らしく言わないから、らくらくダイエットに成功したと思い込む。日本人は素直な国民というべきか、な。
まあ、他の食品でもそうだったように、続かない人が多いから、そのうちバナナにもふつうにお目にかかれるようになるでしょ。 2008/9/26 家に帰りたい・・・薬を一種類やめてから、母の意識が目に見えてハッキリしてきた。言葉がよく出るようになって、食事も最初のうちだけは自分でスプーンをもって食べる。
しかし、だからと言って沢山食べられるようになったのではない。相変わらず、一日に換算して500カロリーくらいの流動食を3割程度。以前だと、食べられないと言っても無理やり口の中に入れていたが、意識がハッキリしたぶん、それができない。イヤだ、食べれない、と言ったらもうそれで終わりなのである。プイと横をむいてしまうか、エプロンを自分ではずそうとする。流動食の器のフタを一個ずつかぶせてしまったりとか・・・。
その上、「家にかえりたい」と言う。これを言われるとつらい。いま家に帰ってもらっても自力で排尿ができない、食事も時間をかけて僅かな量だけという状況では、私は困ってしまう。病院からは、まだ退院と言う話しはないが。
今日は病院のソーシャルワーカーさんと話をした。主に、退院後の受け入れ施設のことと、家で看る場合どんなことが必要かなど。
要するにお金を出せば、快適そうな施設はありそうである。そうでないところも、そこそこ費用は必要のようだ。そこそこ必要なところも、たぶんそうだろうとは思っていたが、特養などというところは300人待ち、というくらい満員なのだそう。現在入っている人がお亡くなりにならないと空かないようだ。
で、家に帰りたいという母。駄々をこねる子供のよう。こうなったら家で面倒看るか、とも思う。でも大変そうで続けられる自信がない。家で半分、施設で半分という手もある・・・
などと、あれこれ考えている。「家に帰りたい」も本人の意思であるし。
2008/9/17 本人の意思どうにも食事がノドを通らなくなって、実は「胃ろう」を覚悟した。母はやっとのことで流動食を2割程度呑み込めるだけなのだ。これでは身体がもたないことは素人にもわかる。栄養補給の点滴もしていない。リハビリだけはマニュアルどおり進んでいる。このままでよいわけがない。
今日、担当の医師と母の今後について話しあう機会があった。だが本人抜きの話しである。その前に、母の意思を知りたかった。
「ねえ、母さん。先生とお話しがあるのだけれど、その前にお母さんに聞いておきたいことがあるの。大事なことだから、ちゃんと返事してね」
と言って聞いたこと。 「あのね、お母さんがこんなに食べれないので、お腹に穴を開けて、お腹からご飯を食べるようにしたほうがいいかもしれないの。そうなってもいい?」 母は首を横に振った。元気な時から母は、そのようなことはイヤだと言っていた。 「あのね、首を振っただけではイイなのか、イヤなのか分からないの。ちゃんと声に出してどちらなのか言って、ねっ」 そしたら母ははっきり言ったのである。蚊の泣くような、息を吐き出すだけの声ではあったが。 「いやだ」
つかさず私は聞いた。 「でもね、食べられないでしょう? このままだとお母さんはミイラのようになってしまうよ。それでもいいの?」 「いやだ」 「どっちがいやなの?」 「穴開けるの、やだ」
母は眠ってしまってもうそれ以上は聞けなかったが、とにかく母の意思は分かった。
それで、担当医師との話し合いの時間が来た。妹にも同席してもらって、妹の考えも言ってもらった。母本人の意思を伝えたのは言うまでもないが、医師の方が私と妹に聞きたかったことは、つまり「家族はどの程度までの回復を望んでいるのか」だった。以前の母にはもう戻れないことは現状を見ていれば判る。とにかく母には樂に過ごしてもらいたい旨を伝えた。そして、このままではとても家で母の介護はできないこと、母を預かってくれる施設も少ないであろうこと、公的私的介護の手を借りても大変であることを話し、病院はどの程度までを患者として扱うのか、そのようなことも話した。
とりあえず、肝機能や血糖値などの検査を一ヶ月近くしていなかったので、それを知りたいこと。他に病気がないか家族としては知りたいのである。尿が出ないのはなぜか、泌尿器科の医師とその担当医と話して欲しいということ。そして、とりあえず点滴をして体力を回復させたほうがいいと思っていること。それは、体力が回復したらまた呑み込む力が出てくるのではないかと、家族のはかない希望的な気持ちなのである。
言いたいことを言い過ぎたかな、と思った。途中で医師がカッとしているのが見て取れた。でも言わなければ分からない。患者や家族も状況の変化によって、考え方も変わってくるものであるし。
しかし、私としては穏やかに話したつもり。医師も「また何かあれば話してください」と言って、その会合は終わった。
さっそく点滴が始まるようだ。実は、点滴を望むのは妹の考え。妹に手伝ってもらわないと母の介護は乗り越えられないから、ここは妹の気持ちを代弁した。とりあえず、この路線でいって、次はまたそのとき考えよう・・・。病院のケースワーカーさんに今後のことについて相談もできることにもなった。今後のことは、また、そのとき考えよう。
介護って、自分の身に降りかからないと、その大変さがわからない。今後老人がますます増える日本。高齢者医療のあり方を変えないと、暗い介護列島になってしまう。そんなことをつくづく思う。
2008/9/14 生きることの意味
今日は少し哀しい。母が朝から少量しか食べなかったからだ。夜は3割。すべてトロミつきの流動食で、全部食べたとしても900カロリーしかないという。看護師さんによると、いくら動かなくても1100カロリーくらいは必要だという。
母は、金輪際、開けるものかと言う感じで、口をへの字にしたまま。スプーンでこじ開けて流し入れる哀しさ・・・。目も開けられないのか、帰るときに僅かに開けてくれただけだった。私は精魂尽き果ててしまった。
看護師さんと少しお話ししていたら、水分も取れていなくておしっこの量も一日500CCくらいだという。このままだとまた点滴を始めなくてはいけないか、「ご家族の嫌がっておられること」(胃ろう)をしなくてはいけないだろうということだった。先生がどう判断されるでしょうね、ということで話は終わった。
「今日だけ食べれないのだと思うことにするわ」と私はつぶやいて戻ってきた。
しかし振り返って見ると、静脈への点滴を抜く時の食事量は、現在の半分だった。抜く前の話だと、一日に一回針を刺して栄養補給の点滴をするということだったのに、いきなり全く無くしてしまうなんて。今考えると、なぜかと思う。
「胃ろう」なんて! けれど、やはりしなくてはいけないのだろうか。あくまでも拒否した場合、私は母を食べられないまま痩せこけて死なせるということになるのだろうか。
病院は何が何でも命を助けようとするところ。けれど人が生きる意味までは考えることは少ない。どんな形でも肉体が生きていることは尊い・・・それが世間一般で「善」とされている表向きの考え方だから。
敬老の日を前に
母は数え年で88歳の米寿。市からお祝いとして金一万円が届いた。有難く頂戴したが、本来は母が直接受け取るべき。入院中というのはまことに残念。これでおいしいものでも食べに行けたら言うことはないのに。 お祝金を病院に持って行って母に見せたが、目を閉じたまま開けたくない様子。果たしてわかっているかどうか。なぜにあのように眠たいのだろう。
わが犬、ハチベエ。18歳と半年を生き抜いた。この夏は持たないと思っていたのが、一応、毎朝散歩にいきたがるので出かけている。足腰はさすがに弱って、階段はもちろん上がれないし、まっすぐ立っていることもおぼつかないけれど。それに興奮すると倒れてしまう。目もあまり見えないようだし、散歩以外では寝てばかり。
高齢、万歳!! なのかな?
2008/9/8 信じられない!!!(@_@;)
母に夕食を食べさせていたとき、担当医がやってきた。
「点滴は、腕からするものも、もうやめました。どうですか、すっきりしたでしょう」 「はい、ありがとうございます」
「食事の量は倍になったようですが、どうですか?食べれていますか?」 と、医師は傍らに貼ってある食事量の表を覗いた。 「ええ、まあまあだと思います」と、私。
「なんか聞くところによれば2時間くらいかけて食べさせているようですが」 「ええ? そうですか。時間はかけていますけれど・・・」(実際は一時間くらいなんだけれど)
「脈の方は安定していますし、これで、お家でも、いや施設でもいられると思いますので」 「え? あのう、おしっこが出てないようで、看護師さんたちに取っていただいているんですが」 「そうですか?」 「はい、泌尿器科からお薬もいただいて飲んでいます」 「あ、そうでしたか?」
「抗生剤だそうですが」と、私はついさっきくず入れのかごに捨てた薬の袋を拾い出して医師に見せる。きっと私はものすごい恐い顔をしていたと思う。
「まあ、退院のことはそう急いだ話ではありませんから」 「はあ」 「また話し合っていきましょう」 と医師はそそくさと行ってしまった。
「・・・・・・・・・・」
ほんとうは母はうんちも一週間出ていなくて、下剤を飲ませたところだった。それを言うまもなく。
患者のところに来るのにカルテくらい見てきてほしい。担当医が他の科から薬が出ていることを知らないとは、どういう医師であり、どういう病院なのだろう。呆れて腹が立って・・・もう、開いた口がふさがらなかった。
今回は成り行きで仕方ないにしても、母も私自身も今後絶対にこの病院を利用したくない。固く決心した。
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